子育て回顧録 小学生編1

よよ子です。昨日最後の失業手当申請をしてきました。いまだ求職中で暇なため家でがま口ポーチやバッグ、アクセサリーなど作りまくり、オリジナルの織ネームを付けで「デザイナーごっこ」で自分をごまかしております。

 

だんだん増える作品、、、

さて前回の幼児編に続き小学生編です。ここから出戻りのシングルマザーとして奮戦することになります。学校といえば、「クラスの役員決め」があります。もともとPTA活動や地域活動・子供の部活のバックアップや付き添いなどがめんどくさい、できればやりたくない、、、という私のようなタイプは役員決めが地獄です。次女はバスケの助っ人としてミ二バスケに参加していましたが、私が付き添えないという理由で入部しませんでした。卒業までに児童一人につき1回計2回、地域で1回、学童で1回は必須です。妊婦・病気以外は免除されません、厳しいです。学童を除き重複できないので3年はかかります。クラスの人数も少ないため下手したら2週目が来ます。小学校は平日が多いので有休は子供の行事でなくなりました。

長女の黒歴史ですが、1年生の通学の時 朝は普通に家を出ていたのに、寄り道やら、犬の散歩についてったり、と半分くらい遅刻していたらしいです。帰りは決められた通学路以外を自由に帰ってきたり、授業で返却されたテストやプリントはごみ箱に捨てていたらしく、先生や生徒が拾ってくれて学期末にまとめて渡されました。校庭での授業で池にいるカルガモの親子に石を投げたり。個人面談は1年生なのに3時間にも及びました。長女曰く、朝は探検していて新しい道を発見したとか、ごみ箱に捨てたプリントはもう終わったからいらないのにみんなが拾うからいろんなところに隠したそうです。怒ってばかりだった気がしますが、連絡帳に「今日のしゅくだい さんすうプリント1まいありマッスル。」と書いてあった時は怒れませんでした。思わず吹き出しました。

習い事を始めたのは4年生位、自分から公文に行きたいと言い出して1年間粘ったので行かせてみました。(本人談「みんなやっているから自分もなんかやりたいなと思ってさ~」)もともと成績は良かったのでどんどん進み、小学生で中学まで終了しメダルか何かもらったと思います。中学になると月謝が上がるのでひとまず終了としました。英会話も妹が行っていたので、体験学習をしてから本人の意思ではじめましたが外人の先生は嫌だと言いながらローテンションで通ってました。文法のクラスは好きだったそうです。中学の英語がとても楽になりました。

当時の彼女の宝物はディアゴスティーニの鉱物特集最初の390円でせがまれて買った「紫水晶」と誰かからもらった「ヘマタイト」工業高校の文化祭で作ったでっかい「ネジ?」でした。同じく紫水晶を持っていた長女の同級生は東工大へ行き立派な理系人になりました。あまりおねだりされないのですが あの「紫水晶」の魅力恐るべし。長女「理系人」の始まりです。あ、でんじろうも好きでしたね。

東日本大震災が起きた時、長女はたまたま家で一人でした。相当怖かったようで その後 部屋のドアは閉めれず、軽い地震でも人のいるところに飛び出してきました。トラウマは10年くらい続き、やっと薄れてきたようです。私が帰れない間、母が世話してくれましたが、いなかったらどうなっていただろうと思います。

夏休みの家族旅行も行けるようになりました。(旅行積立をしています)行先は毎年私が行きたい所でちょっと何かが学べる所を考えます。夏休みの作品を作れる、材料を集めるとか、工場見学ができるとか、体験できるなど。海外の場合は地図を必ず確認させてその国のことを勉強させてから行きます。

まとめ:子供の宿題はチェックしよう。うちの子は「宿題はないよ」と嘘をついてました。また、ノートや教科書見てみると面白いこと書いてあるかも 落書きは鉄板で笑える。おすすめ図書は図鑑!は大人になっても見るよ。習い事は自分でやりたいと始めた事は意外と頑張る。優秀な子でも褒める。長女は勉強ができたのでテストの高得点や成績が良くてもあまり褒めなかったので反省。(不公平だと子供に指摘された。)展覧会の作品等はとっておき、あとで見せると喜びます。作文は恥ずかしいらしいです。 

次は真逆の次女編へ続く